『小林秀雄講演』個性について

新潮CD 講演 小林秀雄講演 が第一巻から第七巻まであるのだが、なんども感銘を受けた。
茂木健一郎もそうだし、糸井重里もそうじゃなかっただろうか。
すでにいろいろなところで絶賛されているのでご存知のかたも多いだろう。


小林秀雄の語り口は江戸の下町口調で志ん生にそっくりだともいわれている。
声は聞きあたりがよく、ユーモアも爽やかで愉快な気持ちにさせてくれる。
まさしく言葉どおり愉しく快いのだ。


多くが語られているのだが、その中での“個性”もしくは“私”ということについて今日は書き記してみたい。
特にこれについて記したかったのは、現代はこの“個性”もしくは“私”ということに大いに蝕まれているのではないかと思うからである。
自分の個性を発揮しよう、個性を表現しよう、個性を尊重しよう、個性的に生きよう、私を大切にしよう。こんな言葉や教育が氾濫している、それについて体のそこから湧き上がるような違和感を感じていた。


京都に住む友人から「自称アーティストのような人間が多くて、そのような輩の薄っぺら自尊心を見せつけられるとフラストレーションがたまる」というメールをもらい、それについて小林秀雄の講演の中の言葉をひいて返信した。

「客観的と無私は違う。なんにも私を加えないで私が出てくることがある。自分を現そうなんて思ったら現われなんてしないよ。自分を現そうと思って現そうとしているやつはこれはキチガイキチガイはみんな自分で自分を現そうとしている。それでみんな気が違ってくるんです。その人は自己の主張するものが傷つけられると人を傷つけます。僕を本当にわかってくれるのは無私になったときです。無私になったら人は話を聞いてくれるんです。そのときにはじめて自分が現れてくるんです」
<第一巻 文学の雑感の中「無私を得る道」より>

世の中にはキチガイが多すぎるんじゃないか?僕もふくめて。
自称アーティストたちはまさにそのキチガイ予備軍である。
これらのキチガイが無差別殺人なんかを起こしていると思ってもそれほど的外れではないだろう。彼、彼女は自己を現そうとしたに違いない。


さらに小林は個性についてこうも言っている。

「個性なんてものは人と変わっているということです。我々が考えているような個性ではない。オリジナリティってもんではない、それはむしろスペシャリティです。こんなものは誰にだってあるんです。それは強制されたものです。だからそんなものは突破しないといかん。克服しないといかん。そんなものを乗り越える精神が現在使われている意味での個性である。
強制されたような条件、状況を克服して普遍的なものをいうのが芸術でしょう。
でもみんな間違えて個性を現そうとする。
ただ変わってるのは癖であり自慢できるものではない。
<第七巻 ゴッホについて/正宗白鳥の精神「個性と戦う」より>

公平無私であること。その代表的な告白文学として小林秀雄があげていたのが『ファン・ゴッホからの手紙』である。
実はこれは随分前に友禅染をしている友人から薦められていたのだが未読である。
無私であること。
難しい課題である。
『ファン・ゴッホからの手紙』は早速読んでみようと思う。