映画『結い魂』 死によって結ばれる魂

「遺言」が「結い魂」であるとは気づかなかった。長岡野亜監督による市民制作ドキュメンタリー『結い魂』は、「遺された言葉」が「結ばれた魂」になりうることのかすかな兆しを示しえたのではないだろうか。


ゆきゆきて、神軍』の映画監督・原一男氏が企画・監修し、近江八幡のお年寄りを撮影した地域密着型ドキュメンタリー映画であるこの作品は、ひとりひとりのお年寄りの表情を、正面にすえたカメラで丹念に掬い上げ、翁や媼が童にかえったような魅力を描き出した。


琵琶湖、そして舞台となる近江八幡市を、パラグライダーでの空撮と水面を走るボートでの滑撮をつかい、寄りと引きの小気味よいリズムで世界観を概観させたあと、6人のお年寄りのそれぞれの今の言葉と姿をつむぐ「結い魂」の映像を重ねていく。

雨ニモマケズ。 ごみニモマケズ。
長光寺のお豆さん
遅咲き、乱れ咲き、こぼれ咲き―はるゑの青春
人生甘辛く…オヤジの料理道場
琵琶湖と、オヤジと、思い出のスキヤキ
ごめんね、あっちゃん。

という6つのエピソード、そのあらすじは
http://gonza.xii.jp/yuigon/synopsis.htmlで確認してもらいたい。


彼らの言葉はあまりに平凡で、退屈であり、悔恨や充実や満足や希望を使い古された常套句で語る。とても死を前にした人物が語る言葉であるとは思えない。
確実に近づいてくる死の足音を前にしても、人は自分を死からは遠い存在だと思い、体験していないことを想像することの恐ろしさからは目をそむけるものである。
もちろん、その姿勢を安全・安心社会が生み出した盲目であると批判することはたやすい。しかし、失語した老人たちはそれでも遺された“よき未来”になんらかの寄与をはたそうとして、この他愛もない言葉を遺していた。


「結い魂」とは「結ばれた魂」である。
日本古来の神は、産霊(ムスビ)の神であった。
「結び」とは「ムス(産す)」「ヒ(魂)」。彼らが紡ぎだした言葉は、結ばれた瞬間にあらたな「霊」を、遺されたものの心に「産す」るのであろう。
彼らの言葉はあまりに月並みであるのだが、彼らが他界した瞬間に、そのなんでもない言葉が「結い魂」(ゆいごん)となる。
エピローグ、長光寺の住職が亡くなられ、通夜にてそのメッセージを家族がそろって聞くの見ているシーンがある。遺言の画面に魅入る家族の表情が、確かに心に魂が結ばれたことをことを、象徴していた。

吉村堅樹