日本文化にとって「分」とはなにか。

「自分探しなんかやめたらええねん。なんぼ追いかけたって自分の背中は絶対見えへんねん」。

松本人志キンチョールのCMの捨て台詞は、日本人の「自分探し」の気運の矛盾を直感的に示唆したものであった。「自分」という自らの「分」は他者との関係で決まる。西欧では神と自己によって「自分」が規定されるのと同様に、敗戦後の日本は「もとから不変の自分」があることを想定したために、永遠にみつからない「絶対的な自分」を求めることになった。ネット上の仮想空間で、アバターという「分身」を作成し、掲示板で「言い分」「分散」させているのは、見つからない「自分」を主張するためなのである。


「分」とは「刀でもって物を分別すること」を指す。違いをきめる境界でもある「分」は、日本では相手や状況、時間に応じて動きつづけているものであった。


人と対するときの態度を左右するのは「身分」である。「身分」は、江戸時代には士農工商として「区分」され、「職分」が決まっていた。「分」を超えると「過分」になり村八分にあうこともある。「職分」のなかでさらに「親分子分」があり、本家に対しては「分家」「分派」が生まれてくるのだ。「分」がみえなくなってきた現代では、復刻版やゴパンのように日本人の「本分」を求めたり、絆や愛郷心といった言葉で共通の「分母」を唱える気運が高まってきている。


トレンドとは人々の動きであるが、その人の欲望の方向性を決めるのは「気分」である。空気や雰囲気といった気がどのように「分」けられるかを「多分」に推測し、人は行動を決めるのである。気の動きが忙しい今の時代は、1000円床屋やプチ旅行のように「寸分」の時間で「充分」に満足を得ようとするトレンドが見られる。いつの時代も人は一息つける「余分」を求めているのだ。一方で「部分」「気分」を感じられるのも日本である。商品の「成分」表示やネイルアートのような各部に「分析」「分解」し、安心や気晴らしを得ようという傾向も顕著だ。


四季のある日本では「時分」を大切にする。季節は春分秋分「節分」などによって分けられている。プレミアム限定商品や旬のお取り寄せは「時分」をみはからった商品であろう。季節だけではなく、個人の「時分」もある。所得が減ってくると「分相応」の安くて旨い食材をさがし、共同購入のように「分担」して安価に「分け前」を得ることも考える。そのときによる「応分」「存分」に楽しめるも日本人の特徴であろう。


時、場、人によって、日本では「分」が動くのが本来なのである。「分」が固定化しがちで、わかりにくくなっている現代では、あえて「分」を動かして設定することが、日本のあらたなトレンドを形づくっていく鍵になると予想する。