吉村堅樹:千夜千冊『スティグマの社会学』に触発されて

千夜千冊『スティグマの社会学』

いったんスティグマを烙印された者には「日陰」がちゃんと用意されていて、
そこに参入させられると、「日陰者」は他のスティグマの持ち主と
十把一からげに扱われることにもなる。


ゴッフマンはしたがって、スティグマは自発的応諾(compliance)からではなく、
他律的順応(conformance)によって成立するとみた。
逆にいえば、コンプライアンスをちゃんと自己管理していないと、
あんたは社会的コンフォーマンスによってスティグマを捺されるよということなのだ。


しかし、これはまた、何たる面倒か。
こんな面倒な防御をもってスティグマをもらわないようにするのなら、
いっそ出自においても、身体においても、行為においても、
スティグマ武装したほうがよほど“社会的である”という気になってくる。
けれどもいまや、それはとりあえずは映画やマンガやパンクやトランスジェンダー
においてのみ許されるだけなのだ。
まったくつまらない世の中になったものである。


スティグマ社会からスティグマを烙印されると、「日陰」にいくのだが、
「日陰」でスティグマを烙印されるとさらに「日陰」にいく。


このときに選択できることが3つあって、
さらに「日陰」にいくことを選択することもできるし、
もうひとつの選択肢としてはスティグマを隠すということ。
そして最後、スティグマをさらして、それを武器にすることだ。
この中での能動的な働きは最後のスティグマでの武装しかないわけだが、
さらした挙句の、痛々しい結果に終わっていることが多いのだろう。


さて、スティグマ社会では、
多かれ少なかれ、スティグマを烙印されることを恐れて、暮らしている。
そして烙印する側にまわることで、自分の身を守るのである。
僕も、それを恐れているものであるが、
どうしても烙印する側にまわることはできない。
烙印された側に対しての、シンパシーを感じてしまうのである。
それは物心がついたたときからの微細なスティグマゆえなのであろう。


スティグマ社会にうまれたスティグマ者は、
その社会に真に居場所がないことを悟るのである。
真に居場所がないことを悟った結果、
「日陰」にいくためのスティグマを惰性的に求めてしまうのかもしれない。

まったく一息つくまもない転落なのである。
詳しいことは知らないが、
酒井法子スティグマもそのような急速な展開を見せていた
(ちなみに、彼女のドキョーはなかなかおもしろい。
いずれ山田五十鈴のような大物女優になるといい)。

「日陰」に居場所を求めるのではなく、
彼女はスティグマを白日のもとに曝し、衆目をそむけさせるような
人になってもらいたいと思っている。
それが大女優なら楽しそうだ。吉村堅樹: