吉村堅樹:『美』に関する番組の構成について

美の巨人たち』を撮りだめしておいたのを見た。
今年の3月の分も入っていたからずいぶんと古いのもある。
アングルの『ヴィーナス』と中川一政の『薔薇』、円山応挙の『大乗寺襖絵図』であった。
 

美の巨人たち』の番組構成というのは、バラエティー的な型をもっている。
一つ目は、画家ではなく、作品にスポットをあてているということ。
二つ目は、その作品にこめられてる謎というものをしつらえて、
それを30分をつかい解きほぐす構成にしているということ。
三つ目は、ナレーターをモデルであったり、弟子であったり、生き物であったり、無機物であったり、その画家の身近にいたりあったりしたものにしていることである。
アングルであれば弟子、中川一政であれば金魚、応挙も弟子がナレーターであった。


かつての美術番組、吉田喜重が演出した『美の美』は、それと全く違う構成であった。
『美の美』の場合、画家にスポットを当てていた。
画家が何を描こうとしたかに迫っていくものであり、放送の回をまたぐこともあった。
ナレーターは吉田喜重その人であり、
鑑賞者としての吉田喜重が絵がおさまったTVの画面に、
美術館の床に響く足音とともにフレームインしてくることでナレーションが始まる。


この構成のどちらがいいというものではないのだが、
美の巨人たち』はとっつきやすさと30分という時間を意識した構成になっている。
対して、『美の美』は吉田喜重が芸術家として
同じ画家という芸術家にどう向き合うかということを、
必要な時間を割いてつきつめていくというものである。


現在、放映されている『美の巨人たち』はBGMのように流していても、
疲れているときにぼんやりと見ていても、それなりな理解が得られるようなものだ。
反面、ポレポレ東中野で特別上映されていた『美の美』を見に行ったときは、
途中何度も睡魔に襲われた。


ただ、危惧するのはこのとっつきやすさというのが、
娯楽性を求めるがゆえの、切り離された断面の提示に
なってしまっているのではないかということである。
言いかえれば、そのときそのときの楽しさを追求することに
重きを置きすぎてはいないだろうということになる。
絵は絵として断面で成立はしているのだが、
画家がその絵を描いたことが、連続した歴史の中の必然として見えてくるような
そういった番組を見てみたいものだなと思った。


ところで、絵としては、キュビズムのはしりのような
アングルの『ヴィーナス』もよかったが、
応挙の『襖絵』の庭からとんできた蝶や畳の海、
空を横切った視線の先と空間のつかいかたが実に良かった。
でもこれ3月以降は、保存のためにレプリカの展示になったんだとか。
ほんものは当分みれないんですなあ。

吉村堅樹: