フラジャイルな右肩

金曜日の晩から突如として右肩の関節まわりが痛み出した。
正確に言うと金曜日の朝に目覚めたときから違和感はあった。
変な寝方をして肩が凝ったか、筋が違ったのかと思っていた。
ぐりぐりと前に後ろに幾度となく肩をまわし、
自分でやったり、ひとに頼んだりして肩をきつく揉み解す。
ほうっておけばそのうち治るだろうとたかをくくっていた。
ところが、もう夜になるとすごいのである。
痛みで寝られもしないし、本も気が散って読めない。
じっと座っていることもできない。
だからといって立ってても痛い。
痛くない腕の置き所というのがないのである。


いたしかたなく、救急病院を探すことになった。
ところが整形外科というのがやっていない。
内科や外科はあるのだが、症状をいうと断られる。
(その断り方というのも押しなべて面倒くさげで、世の薄情を思い知らされる)
消防署の救急病院連絡サービスとやらをつかい、
ようやく豊島区で一件、整形外科で時間外診療をやっているところを見つけた。
電話してみると、
来てもらったところで、今の時間だったら、
レントゲンとって、折れてないですねとかいって
湿布はって、痛み止めだして終わりですよと言う。
そう言われるとあえて行く気にもなれない。


鎮痛剤を飲んでなんとか寝ようと試みるのだが、
やはり無理だ。寝られない。
こんなとき時間というのはなかなか経ってくれない。
出産を待っている妻思いの夫のように、
右腕を抱えてうろうろしてみて、これは結構時間がたったのじゃないかと
時計を見たら、さっき見てから10分しか経っていない。
観念して床に寝ころび、
ソファの足やその足の間からみえる板の筋目、
天井なんかを見ていた。


ああ、こんなふうにソファの足を見たり、
天井を見たりすることもずいぶんしていないし、
時計の音や外の車の音に気をとめることもなかったなあと思っていた。
この感覚はいつだったかと思い出していたら、
3年ほど前の痔の手術のときだと思い当たった。
「毎日が生理」なんて自嘲気味にいうほど、
ひどい痔もちだった僕は、
手術したら再発しないという情報を聞いて
意を決して手術をし、10日も入院したのだが、
病院のベッドではずいぶんと天井をみていた。
http://d.hatena.ne.jp/kenjuman/20071215
そのときは自分でも驚くほど弱って、
食欲やら性欲やらいろんなものの欲がなくなって、
声も大きな声はでなくなった。
すこしでも力をいれると痛いので、
笑うこともままならないし、ましてやオナニーなどできようはずもない。
なんとも弱々しい状態だったのだが、
この感覚がいたく気に入ったのだ。
http://d.hatena.ne.jp/kenjuman/20071220
そのときは「不自由という自由」という表現を使っていた。
僕はその感覚を手放したくなくて、
徐々に元気になってきてもしばらくは弱々しい声で話し、
ゆっくりとした動きで弱々しさを演出していたのだが、
外的刺激に喜怒哀楽の感情を揺さぶられて
残念なことにそれは長くは続かなかった。


そういった感覚をもっていたことなど忘れ去っていたのだが、
最近、読んだ本のなかで、そうこれだと合点がいく描写にであった。
それは作者が胆嚢摘出手術をして、術後の回復をしていくところである。

手術後の回復過程は学習ではない。
まさに再生だ。(中略)
それはまったくおもいがけない感動と収穫となった。
しかしそれもつかのま、やがてもっと怖るべきことがやってきた。(中略)
自分の体がだんだん回復するにつれ、
なんと自分の体がみるみるうちに最も「卑俗なもの」に、
すなわち「強いもの」に向かう体のほうに戻っていくことに気がついたのである。
                『フラジャイル』松岡正剛

まったくもって同じ失望を痔からの回復で僕は味わった。


いまも痛む右肩を抱えながら、
フラジャイルな状態を味わっている。
じゃあ、しばらく治らなくてもいいかというと、
やはり、痛いので早く治ってほしい。
僕のまだ残る卑俗な意識がそういわせるのである。