吉村堅樹:雑念のことを考える

去年あたりから考えていることに
『雑念』をいかに遠ざけるかということがある。
『雑念』は不安や逃避、後悔や憎悪、煩悶や嫉妬などといった
さまざまな形をとって現れるのだが、
そのどれといって冷静な観察対象とはなりがたいもので、
厄介なものである。
『雑念』が生じた場合、
しばし『雑念』とのつきあいを余儀なくされる。


どういったときに、『雑念』が生まれるかなのだが、
正面から対処するのが躊躇われるような、
ものごとに直面させられたときに、
不安であったり、空想であったりするような
『雑念』が生まれる。
そのものごとに取り組む面倒くささを別のものに転嫁しているのだ。
その別のイメージからつぎつぎとつながる連想が始まる。


たかが『雑念』なのだが、
この『雑念』がなく、
熱中していたり、集中していたりするときに
虚無感や不安感がはいる隙間はないだろうと思うのだ。


退屈などは『雑念』の大好物である。
極論にすぎると思われるかもしれないが、
「退屈よりは不幸のほうがよい」と思うのだ。
この場合の不幸の定義は、
一般的な意味での不運に近いかもしれない。
例えば、事故や天災といった不運である。吉村堅樹:


この雑念というものを考えてみたいと思う。
その正体を見極めてみたいとも思う。