吉村堅樹:陰陽の過剰さ

陰と陽は対になって語られる。
その過剰が最近は耐え難くなってきた。


昨日、お好み焼きを食べていたのだが、
彼氏彼女の話をヒステリーになったアメリカドラマの主婦のように
楽しそうに話している人たちがいた。
あくまで楽しそうなのだが、
その楽しみ方が過剰に感じて仕方がないのだ。
楽しいんですよ、私たちは。楽しくて仕方がないんですよ。
と僕たちに精一杯教えてくれているようにみえるのだ。


その光景は決してたまたまみたものではない。
大声で話している人だけを例にとっているのでもない。
私は幸せということを声高にいう必要はない。
私は不幸せということも声高にいう必要はない。
いま他者の例をひいたのだが、
気づくと過剰を演じている自分がそこにいたりすることもあるのだ。


陽の過剰さが、内に陰をこめる。
こめられた陰が、その表出を求め
自己表現という形になって噴き出す。
表現された自己表現は自己のためのものだから
相手からみれば面白くもなんともない。
おもてなしの心はそこにはないのだから。
面白くないから見向きもされずに
その不足からさらに陰をこめる。
面白くないものをみせられた側は
そこにおもてなしの心がないことを察する。
その不足から陰をこめる。
蓄積してあふれた陰の表出としての陽たる自己表現。
このスパイラルからの脱落が鬱になって現れてくるのではなかろうか。
現代螺旋構造の中で悶死させられないようにするには
逃げるか鈍くなるか、はたまた闘うか。


闘うには相手を見定めなければならない。
相手をかっちりととらえないといけない。
まずはそこから始めようではないか。
さもなければ、逃げるか鈍くなるか。
それを世捨て人とよぶ。
吉村堅樹: