『本を書く』言葉を伝える

ところで君はヴィジョンがあれば、
なんとか書き始めることができると思っていたら、まったくまちがっている。
ヴィジョンがあるのはごく少なめの必要条件かもしれないが、
十分条件は書き始めた言葉がどのように次の言葉を生んでるのかという連鎖に、耐えることにある。
それゆえ、書き終わったすばらしい文章はヴィジョンでできているのではない。
細部と細部のつながりでできている。

そもそも書くということは、説明できないものを発見することなのだ。
「これはちょっと説明がつかないな」と思ったら、そこから執筆の幕が切って落とされる。
書くことがあるから書くのではない。
書けそうもないことがあるから、書くわけだ。

松岡正剛 千夜千冊 アニー・ディラード『本を書く』より
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0717.html

文章を書くときに失語症になることがある。
「書き始めた言葉が次の言葉を生んでいるのかという連鎖」
それに耐えられず、今日も筆を止める。


3月1日にISIS編集学校の卒業式とも言える感門之盟が
北千住の天空劇場であった。
少しばかり通常の卒業式と趣がかわっているのは、
称えられるのは、卒業した生徒(学衆)ではなく、
学衆を指南した師範代や師範の方々だというところだ。
師範から師範代に、今期の指南を称え評した感門表というものが渡され、
それを受け師範代は言葉を放つ。


その中で少しひっかかった言葉があった。
言葉の詳細はさだかではないのだが、
「何かをつかんだのは確かだが、それが何かわからない。
考えたんですけど、わからなかったんですね。」
といった言葉であったように思う。
ここでひっかかったのは「わからない」という言葉だ。


「書くことがあるから書くのではない。
書けそうもないことがあるから、書くわけだ。」
本を書くわけではなくとも、
伝えられそうにもないことがあるから、伝えたい伝えようとする
足掻いた挙句の言葉をまずは仮でも伝えたい。


なんとなくそう思う、
なんとなく好き
なんとなくかっこいい
なんとなく気持ちわるい
こういった言葉を聞くにつれ、
急速ズームアウトで遠ざかっていく指をくわえた子供が頭に浮かぶ。
それは僕だ。
そしてカメラマンは。


書けそうもないことがあるから、書く
伝えられそうもないことがあるから、伝えようとする
柔らかに干渉する言葉の連鎖を探したい。