恥を憎み恥を愛する

「恥ずかしい」を辞書で調べるとこうあった。

(形)[文]シク はづか・し
(1)(自分の欠点や失敗、あるいは良心のとがめを意識して)
他人に顔向けできない気持ちだ。面目ない。


(2)(人前で気持ちがうわずって)
どう振る舞ってよいかわからない気持ちだ。照れくさい。


(3)(自分が恥ずかしくなるくらい相手が)すぐれている。すばらしい。
「言ひにくきもの…―・しき人の物などおこせたる返りごと/枕草子 110」

大声で話している人がいる。
ラーメンを食べながら、
酒を飲みながら、
道を歩きながら。


昨日は男たちが会社の社長の愚痴を話していた。
誰にしゃべっているのだというような大きな声で。
社長がしどろもどろになって
自分の話についていけてないといったような話だ。
おとといは自分の自慢をしている人がいた。
自慢なのかはわからないが、
いくら動かしているとかお金の話を大きな声で話していた。
やはり誰に話しているのだろうかというような大きな声だ。
恥ずかしい人たちだなと思った。


思い切ったことをいうひとがいる。
思い切った行動をとるひともいる。
自分の感情をストレートに伝えたり、
他人を喜ばせるような表現ができる人もいる。
道化になれる、バカになれるというのだろうか。
踊りだしたり、歌いだしたり、描きだしたり、
やってみたり、まあそんなところだ。
これはこれで恥ずかしかったりする。


そこで考えてみたのだが、
この二つの「恥ずかしい」は同じ言葉を使っているが違う。
通常ではないという感覚がベースになっていることは同じであるのだが、
上の恥は「己の偉大の矮小さに気づかず、自己意識の誇大宣伝に余念がない。」
下の恥は「己が小であることを敢えて言わんとして、
結果的には他者の小にある偉大さを感じさせてくれる。」


平易に極端な言い方をしてみると、
自分を大きく見せようとするやつは気持ち悪いなということだ。
そして自分を小さく見せることを厭わない人はかっこいいなと。
「恥を憎み恥を愛する」
その振れ幅は共有する通常の感覚から
逸脱すればするほど大きくなる。