『茶の本』美に関する連想と考察

新宿で飲んで、自転車でぶらぶらと帰ってたのだが、
高円寺あたりでふと画家で後輩の小川のことを思い出して、
電話をしてみたら、ちょうど5分後に家に着きますという。
じゃあということで、小一時間ばかり立ち寄ってみた。
そのときに岡倉天心の話を少しした。

美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。

岡倉天心の『茶の本』での言葉だが、
たしかに美しいものは友としたいものだが、
「美しい」ということが一般的には誤解されていることはないだろうか。
それは決して均整がとれているということや、
完全であるということではない。


天心は「虚」という言葉でそれを表現している。
茶室を例に、
茶室の本質は壁や天井にあるのではなく、
その空所にあるといっている。
空所があって、初めて自由に動けるのであり、
他を自由にいれることができる。
これを「虚」といっているわけだ。


それを優れた作品の中にも見ていて、
不完全な作品は鑑賞者というピースがはいることで完成をするというわけである。
そのため美は隠し、ほのめかすものだとも言っている。


美しい人というのがいる。
魅力的な人というのだろうか。
そのような人は「虚」がある。
自己意識が強いものは、
その人の中の空所がすでにいっぱいであり、
自由に動くことはできない。
とすれば美しい人を友としたいのはもっともなことなのだろう。


茶室では意味のない重複や単調を恥じている。
茶室へ行く路地は瞑想のための通路である。
この鑑賞者や「虚」を意識したものは何かを連想させないか。
そう、他者を意識した「おもてなし」である。
「美」からはじまるシソーラスをたどれば、
「虚」や「おもてなし」に行き着いた。


麗しい往生にまで考察を及ばすことはできなかったが、
やはり「美を友として世を送り」たいものである。