『必』ってなにかな

『必殺』ですが、今、『必然』、『必』ということが日本では、
わからなくなっている、見えなくなっている。
だから『殺す』ことができない、批判ができないんですね。
『必』は心臓のことですからね。
白川静さんが、それを説かれたわけだけれども、必ずそこに行かなければいけない、
何かの『かたち・きもち・いのち』―、まさに『必』なんですよ。
覚悟が決まればブレない『“必殺”という態度・姿勢』
http://www.eel.co.jp/seigowchannel/archives/2008/12/
連塾 レポートより

多様性に次ぐ多様性を認める文化になっちゃったともあった。
ぐしゃぐしゃになった。


『必』
確かに見えない。
あるのは『必』というほどでもない、
なんとなくそれはよくないんじゃないのといった空気だけだ。


そりゃもう20年前からそうだった。
いや30年前からそうだった。
もうすでに『必』なんてものはなかった。
そのときに憧れたものだ。
コインロッカーベイビーズ』のような破壊衝動に、
愛と幻想のファシズム』の明確な目的に。
若気の至り。


心地よさを与えてくれる場所は、
理不尽なほど明確な『必』があった。
これが新興宗教に入信する若者の心理なのだろう。
苦しさゆえに安逸に逃れる。
もしくは痴呆か忘却か。


いま、理不尽な『必』を肯定するものではない。
ただ、『必』については真剣に考えてもいいのではないか。
これを「べき論」、「〜すべき論」だというように
とらえて、非難するのは簡単だ。
ファシズムや右傾化といったとらえ方をして、
非難する人間もいるだろう。
ここで言うのはそういうことではない。
『必』が「べき」ではなく共有されているのか、
共有できるところに見えるようにあるのかということではないだろうか。
もう少し僕も考えたい。