荒野聖の胡蝶之夢

東京ミッドタウン
ゆう子さんにご紹介いただいたハマサイさんに
昼食をご馳走になりながら、
ビジネスと潜在意識についてのお話をする。


東京ミッドタウン大江戸線六本木駅のB2Fから
B1Fへのエスカレーター脇には、
乳白色の大理石に並列に配置された噴水があり、
下からのライトアップにより、
ゆらゆらとした水紋が、
壁に映し出されていて、
ここを通るたびにそのゆれにだけは
つい目をうばわれてしまう。


人工的につくりだされた水のゆらぎは、
それでも有機的な模様を描いていて、
それゆえに僕の目がいっときのとまりぎを求めて、
ゆったりと安心する理由なくとも安心し眺めるのだろう。


胡蝶之夢という荘子の有名な話がある。

昔、荘周は夢で蝶になった。
ひらひらとして胡蝶そのものであった。
自然と楽しくなり、気持ちがのびのびしたことだった。
自分が荘周であることはわからなくなっていた。
にわかに目覚めると、なんと自分は荘周であった。
荘周の夢で蝶になったのか、蝶の夢で荘周になったのかはわからない。
しかし、荘周と胡蝶とには、間違いなく区別があるはずである。
こういうのを、「物化」というのである。
http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/LaoChuang/DreamOfButterfly.html

日常のなかに異質なものをを見つけると、
ついつい胡蝶之夢を見るように、
うすらぼんやりしてしまう。
高野聖』になった心持ちだが、
どうも僕が泉鏡花や谷崎が好きな理由が少しわかった気がする。


いささかくたびれる緊張と退屈の荒野のなかで、
胡蝶になりひらひらと舞いたいのだ。
それも非日常ゆえのひらひらかと思ってもいたのだが、
いやいや日常すらも舞の場ではないか。そうではないか。


胡蝶が僕か、僕が胡蝶か。
緊張も退屈もなく、ただ舞えばいい。