黒子のセクシャリティー

生きている間に、自分が心が動かされるような美しい女性に
何人であうだろうか?
これは男性という目線で語っているだけであって、
僕が女性であるならば、自分が心を動かされるような美しい男性に
何人であうだろうか?
この女性視点で見た場合の設問が共感性があるのかどうかは、
女性でない僕には推量でしか語ることはできない。


男性としての視点、つまり主観で考えたときに、
さらにその美しい女性に触れるとなるとさらに数が絞られてくる。
理性ある常識人たる僕のような紳士は、
それを指をくわえるようにして眺めているしかないわけだが、
だからといって美しいものを美しくないと
吐き捨てたり、思い込もうとすることほど愚の骨頂はない。


美しいものを美しいものとしてまぶたにとどめるのに方法がある。
それがほくろというものだ。
ほくろはそのための目印なのではないかと思っている。
美という宇宙の星座なのではないかとさえ思う。


ほくろのセクシャリティーは相手の無防備性にある。
美の持ち主もほくろの正確な位置は記憶していないことが多く、
おつきあいの異性もほくろというものを単なる黒点ではなく、
存在の結晶物と認識していることはあまりない。
この「気づいていない」「意識していない」
ということに官能が香りたつ。


江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』をご存知だろうか?
映画でいえば『江戸川乱歩の陰獣』でもよい。
6年ほどまえ、日雇いで空調の肉体労働をしていたことがある。
そこで、医大の女子寮の空調の掃除をすることになった。
女子寮の部屋にはもちろん女子はいないのだが、
空調の掃除をしていると、小さな屋根のすきまから
部屋の様子をうかがいしることができる。
単にそれだけなのだが、仕事であることを忘れてしまうような
一瞬があったことを記憶している。
その持ち主をみたことがないゆえに、
想像力が弱弱しい飴細工のような理性を、
そっとそっと木槌で確認をしてくる。
それに近い意識をもよおさせてくるのが
くろなのである。
意識は細部に集中し、視界はそこから全体へと広がる。


ここまで話しておいてなんだが、
ほくろでなくてもいいような気もしてきた。
のだが、そのまま書いてしまう。


こんな白昼夢を考え考えしているときが、
僕の中の神が小躍りをしているときであり、
そんな神様もすでに僕は大いに慈しんでいる。
ほくろのはなし。