もうすこしガンジー

もうすこしガンジーについて考えたくなった。
リチャード・アッテンボローの『ガンジー』を見た。
リチャード・アッテンボローガンジーは、
歴史の中のガンジーで、ガンジーそのものだった。
比較するとNHKの『映像の世紀』で見たガンジー
白黒フィルムのなかでとぎれとぎれにぎごちなく
塩の行進をしていたが、感動したのはぎこちないガンジーのほうだった。


僕が『ガンジー』を撮るならば、
ガンジーになりたい。
ガンジーを描くのではなく、ガンジーとしてガンジーの人生を感じたい、
そんなふうに思うのだ。


ガンジーといえば、
非暴力・不服従・非協力ということなのだが、
なぜこうもそのガンジーに僕は以前からひきつけられるのかということに
思いを寄せてみた。


ひきつけられるということは僕にとっての現在的意味があるからで、
その中でも不服従に重点があるように思う。
服従とはなんだろうか?
何に服従をしないのだろうか?
それは自分の外側にあるものであり、
半強制的な影響力を及ぼしてくるものである。
では何に従えばいいのか?
それは自分の内側にあるものであり、
いわゆる神とよばれているものである。
この服従に対する考え方が、
現在においてますます重要だという意識があり、
言葉にしてこなかったのだが、
不完全ではあっても
こうして言葉にしてみることは大切だなあと思う。


ガンジーは、イスラム教とヒンズー教
そのほかの宗教も神は同じだということを、
山登りに例えて、真理にいたる道は違うが
目指すものは同じだと言ったという。
真理という言葉が適切なのかはわからないが、
大きな意味での幸福を得たいと思うのは、
誰もが同じなのだと思う。
そしてもちろん道は違う。