神前式のフレーム

昨日はお二人の結婚式を、滞りなく完了させていただきました。
昨日はまことにおめでとうございました。


というわけで結婚式を神父として執り行ったわけだが、
5年前とは事情が変わっていたことがある。
おおまかにいってしまうと要素である。


結婚式でいう要素とはなんだろう。
新郎新婦
衣装
教会
親族
音楽
神父
聖歌隊
進行役
式構成



この中で
友人のパーティのための結婚式であったため
場所、参列者、音楽、聖歌隊、進行役などが
通常の形とは違った形で行われた。
音楽、場所は雰囲気を形成するものとして
大きな役割を担っていることはわかっていたのであったが、
意外にも重要であることを認識したものが
身体の動きである。


神父が進行していく式は、
新婦が入場してからの歩み、
それにあわせて動く参列者の視線。
式の開始、発声にともなう神父の手振り、
指輪の交換、誓約の接吻、証明書に署名、退場と
一連の神父、新郎新婦の動きがある。
この動きによって新郎新婦は気持ちを高め、
参列者もその動きを目で追うことで式に没入していく。
その中で今回は、椅子がなかったために、
進行の流れでの参列者の着席・起立がなかった。
たかが、着席・起立なのだが、
この単純なる屈伸運動が、
式への感情移入を促進するものとして
大いにアクセントになっていたのだなと感じた。


今回5年間という時間をあけて
久しぶりに式を執り行ったわけだが、
進行・構成がわかっている人間がいなくても
臨機応変に対応できる自分自身の成長を感じた一方で、
式の流れ・言葉が僕自身の身体の一部としては
いまだ身についていないという未熟さ、そして
資格、権威というものに対する反感が
単に反感でしかなく、
正当な知識や見解をもったうえでの反感ではないという
もうひとつの未熟さが
やはりそのままに小さな痛みとして残った。


しかし、そんな僕の未熟さとは関係なく、
祝祭をうけた日常は始まっていくのである。
時間や生活は残酷で眩しくて逞しい。