「遊字論」に思う

銀杏木も 蝙蝠傘に 黄色点てん


寒くなってきた。
日常がすでに
コートに帽子にマフラー、マスクと
いつでも銀行強盗にいけそうなスタイルである。
のどかぜも2ヶ月近く治らないので、
生姜汁を飲んだり、首にタオルを巻きつけて寝たりと
一苦労している。


白川静 漢字の世界観』を読んだ。

遊ぶものは神である。
神のみが遊ぶことができた。
遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。
それは神の世界に外ならない。
この神の世界に関わるとき、
人もともに遊ぶことができた。

白川静の「遊字論」の冒頭ということである。

「遊」は氏族霊の宿る旗を掲げて
氏族の力の及ぶ範囲の外に旅すること、
自在に行動することを元の意味にしています。
白川静 漢字の世界観』より

「遊」はどこにいってしまったのだろう。
世界から「遊」はどこにいったのか。
生活から「遊」はどこにいったのか。
探さなければみつからないとはあまりにも不幸だ。
しかし見当たらないのであれば探すしかない。


『フロー体験』という本がある。

フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。(wikipediaより)

このフローという状態と幸福感が結びつけられて論じられていくのだが、
荘子』からの引用で、「遊」=「フロー」であることが語られている。


年の瀬も近くなってきた。
年が明けると僕たちは新年のお願いなんてものを
神社とやらにしにいくわけだが、
どうやら望むものを間違えているのではないかと思う。
僕らが本来望むべきものは「遊」、そして「フロー」な状態なのではないかと。


これをいつも妨害するのが自意識であり、
いってみれば現世的な小さな欲望だ。
そちらを新年からわざわざ足を運んでお願いにいっているとは、
あまりにもばかばかしい。


「遊字論」の抜粋には続きがある。

遊とは動くことである。
常には動かざるものが動くときに、
はじめて遊は意味的な行為となる。
動かざるものは神である。
神隠るというように、神は常には隠れたるものである。
それは尋ねることによって、
はじめて所在の知られるものであった。

いまもむかしもそう簡単にはいかないようである。
ただ尋ねもしないのであれば所在の知られようもない。