意味もなく歩く

朝に意味もなく歩くのが最近気に入っている。
それは散歩でしょ?といわれれば、そのとおりで、
実はついさっきまで“意味もなく歩く”ことが“散歩”だということを失念していた。
それが散歩であることは認めつつも、今でも本当は違うのではないかと少し疑ってはいる。


散歩というとつまらないので、意味もなく歩くという言葉をつくったとして、
“意味もなく歩く”意味がある。
矛盾しているのだが、気にせず話を進めると、
意味もなく歩いていると、野良猫が近くに何匹いるのかや、切っちゃったほうがいいんじゃないかと思うくらいみすぼらしく下を向いた向日葵、マンホールの図柄であったり、おおこの家のまどにはこんなポスターが貼られていたのかといままでなんども通っていたはずの場所で発見をすることがある。
細かい発見はうれしくなるものだ。
古いものからの新しい刺激のうれしさである。


意味もなく歩くと贅沢な気分になる。
身の周りに漂うものを余計に感じることができる。
晴れならば日の光を、雨ならば雨の冷たさを。
いつもより余計に受け取れる、感じ取れるから贅沢なのだ。


意味もなく歩くことには、楽しくなるという意味がある。
目的地があるときは、頭の片隅を目的地という部分が占めるため純粋に楽しむことができない。
楽しむことができる割合が変ってくるというわけだ。
意味もないんだから楽しむくらいしか意味がないわけだ。


まとまりもなくこんなことを書いてきて言うのだが、
意味もないことを書くのも意味はあるのだと思う。