知の四巨人の読書術

吉本隆明ヘルマン・ヘッセ立花隆松岡正剛この4人がそれぞれ読書をテーマに著作を著している。
共通しているのは著作に膨大な書物リストがついていることだ。
その中でも読書術っぽいことが書いてあるのは松岡正剛立花隆ヘルマン・ヘッセ吉本隆明の順番だろうか。


『ちょっと本気な千夜千冊虎の巻 読書術免許皆伝』松岡正剛

<目次より抜粋>
セイゴオ式読書術の秘密
再読にこそ「読書」の醍醐味がある
読書法の極意、「本」をノートにする
プログでは読めない世界
西洋の知で世界を見るな
松岡正剛が一番身につまされた本
われわれが生き残るために最も大切な本

他の三冊は本や読書について書いた文章の寄せ集めなのだが、これだけが唯一書き下ろしというか、この本のために採録されたインタビューで構成されている。
この中で触れられている読書術についてはカンタンにいうと目次・マーキング・要約ということで多くの読書術に関する書籍が語ることと大きな隔たりはない。


その中ではマーキング、本にそのままがりがりと書き込んでいくというのが独特である。
要約はフローチャートダイヤグラムにしているようで、ここでもいまはやりのマインドマップとの類似を認めることができる。


松岡さんの本だけではないのですが、どれも本の紹介がすばらしくどの書籍も読みたくなってしまうものです。



『ぼくはこんな本を読んできた』立花隆

知的好奇心のすすめ
私の読書論
私の書斎・仕事場論
ぼくはこんな本を読んできた
私の読書日記

もっとも下世話な本までも紹介しているのはこの本だ。
最先端の科学からSMまでなんでもござれである。その中でも『あの死刑囚の最後の瞬間』は下世話な好奇心が刺激されて思わず購入してしまった。


オートマトン”という言葉がでてくる。情報処理の世界の言葉だが、ある入力があったときに特定の出力を自動的に行う構造のことを指すらしい。
人間の行動のほとんどはこのオートマトンで行われているのだが、オートマトンの自分に満足しないで知的欲求を常に新しいものに振り向け続けることの重要性を説いている。
書籍リストも未知のものへの好奇心で満ち満ちている。


『ヘッセの読書術』ヘルマン・ヘッセ

書物(詩)
書物とのつきあい
本を読むことと所有すること
保養地での読みもの
言葉
読書について
世界文学文庫/世界文学文庫リスト
ベッドで読んだもの
本の魔力
本のほこりを払う
愛読書
日本のある若い同僚に
「パン(ブロート)」という言葉について
書くことと書かれたもの

古いものでは1910年代に書かれたものもあるので、状況描写は歴史を感じさせるものがあるが、書物に向かう姿勢には考えさせられるものがあった。
<読書について>では、読書の方法を3つの段階に分類する。
第一に無批判に読む。欲求充足のために読書する。
第二に批判的に読む。作者がどのような方法で納得させようかを観察する。
第三に自分で解釈する。書物から完全に自由に連想を膨らませる。
この3つの段階を自由に行き来すればよいとヘッセは言っている。
これがヘッセの読書術だと言ってもいいだろう。


『読書の方法』吉本隆明

第1章 
なにに向って読むのか―読書原論
なにに向って読むのか
読書について
読むことの愉しみ
第2章 
どう読んできたか―読書体験論
本を読まなかった
読書とは、書物からの知識を得ることより、一種の精神病理だ―
わが生涯の愛読書
思い出の本
第3章 
なにを読んだか、なにを読むか―読書対象論
わが古典太宰治「黄金風景」
短篇小説ベスト3作者の資質の根をあらわにした短篇

読書術というよりは本とどう向き合うか。
それが読書術の本質であるといえば、まさに読書術そのものといえるかもしれない。
その一つ一つはテーマに関する思索があちらにいき、こちらにいき、それでいてしっかりとした足取りをたどるのを詳細に描き、その過程を楽しんでいるようだ。


<書評を書く難しさ>という一説がある。

書評は書物がどんな形でも中身を案内し、評価し、そのあいだに体験した言葉の、快楽や不快や開放感など、感覚的な投影についても記述しなくてはならない。これは不可能にちかいほど難しい。
中略
書評とは書物を対象にして公正な作品を作ることだ、といってよさそうな気がする。

これを読んだらもう書評なんてものは書けないと筆がとまってしまう。
最後に吉本隆明はこう結んでいる。

なぜこんな難しい条件のもとで書評を手がけたりすることがあるのだろう?
(中略)
何かといえば、書評はときとして批評がやる懺悔のようなものではないかということだ。
書評にこころが動くのは、殺傷したり、切り裂いたりせずに批評をやってみたい、という無償の均衡の願望のような気がする。言うまでもないことだが、わたしたちが現在、雑誌や新聞のうえで目にしている書評のたぐいは、概していえばここで言ってきたことの堕落形態のようなものだ。

書物に対する真摯な姿勢、書きながら考えるしかいまはなさそうだ。