『アフォーダンス 新しい認知の理論』変化から不変を 部分ではなく統合を

『STUDY HUCKS!』を読んでいたら同時に読んでいた『アフォーダンス 新しい認知の理論』の"アフォーダンス"という言葉が取り上げられていて驚いた。
シンクロニシティというやつだろうか。

プロローグ 
 なぜいまアフォーダンスなのか?
1.ギブソンの歩み
2.情報は光の中にある
3.エコロジカル・リアリズム
4.知覚するシステム
5.共鳴・同調の原理
エピローグ リアリティーのデザイン

"アフォーダンス"ってなに?ってことなんですが、
アフォード(afford)は「〜ができる、〜を与える」。アフォーダンスは造語だ。
「環境が動物に提供する価値」という意味で使われている。
「すり抜けられるすき間」、「登れる段」、「つかめる距離」
これらがアフォーダンスである。
たとえば紙をみてそれがちぎれるかどうか、
机に置かれたペンをみてそれが手を伸ばしてとれるかどうか、
そういった情報はすでに環境に内在しているという考え方です。
それを利用してるのが、
なんとなく座りたくなる椅子であり、
押したくなるボタンであったり。
"アフォーダンス"は多くの場所ですでに考えとして取り入れられている。
僕たちはそういった情報をどういうように受け取っているのだろうか。
この本の中で言われていることで
我々が知覚するのは、

変化しないことではなく、変化することによって、対象の不変な性質が明らかになることである。

つまり物が止まっているときはそれがなんであるかわからないが、動き出してはじめてそれが何か認識できるということが証明されている。
私たちがものを見るときに頭を固定して見ることがありえないことからも、常に動いた状態でものをみているわけだが。
こんなことからも、人間としてみたときにも人間が変化をすることで、動くことではじめて人間としての特質を示すのではないかという考えもさせられる。
とまっていたり、変わらないことではその人というのはなにもわからないし、伝えることができないのだと。
また、運動の制御については、部分を意識するのではなく、全体の統合として意識をすることで統合を容易にすることも述べられている。
これなどは考えとしてインナーゲームにも通じるものがあるのではないだろうか。

環境の中の情報は無限である。したがってそれを探索する知覚システムの動作も生涯変化しつづける。
(中略)
知識を「蓄える」のではなく、「身体」のふるまいをより複雑に、洗練されたものにしてゆくことが、発達することの意味である。

"アフォーダンス"、人間という個としても、何かを生み出そうとするときも意識したい認知の理論だと思った。