『後世への最大遺物』生きる目的とは何ぞや?

後世に遺せるものとは何か?
人間誰しも「なぜ生まれてきたのか?」ということや、
「自分が生きている目的はなにか?」ということを一度は考えたことがあるのではないだろうか?


僕はそれがわからなかった。
今でも明確に「わかっている!」と言い切れるわけではないのだが、
一番最初にそれらしきものを感じたのは、
まだ大阪府立大学の学生であって、21歳のときだった。
当時住んでいた至誠寮の一室でタルコフスキーの『ノスタルジア』を見、
蝋燭の火を消さないように温泉を渡るアンドレイの姿にうたれ、
人間は使命感をもつことが、それを自ら決定することが大切なのであると感じ入った。


人間の目的として「後世の人間のために生きる」といったのは河合準雄だっただろうか?
それも果たせぬまま月日を重ねてしまった。


内村鑑三の『後世への最大遺物』。
ここでは人間が後世に遺せるものとして、

事業
思想
というものを挙げている。
(思想のところで源氏物語をあんなものは文学じゃないと否定していることには、
はなはだ疑問を感じるのだが…)


しかし、これらは最大遺物ではないと彼は言う。
最大遺物とは誰にでも遺せるものであり、
利益のみあって害がないものだと。
ではその最大遺物とは何か?
勇ましい高尚なる生涯がそれだというのが彼の論である。


今なにもない、何の能力もない、としても
これこそまさに艱難辛苦であり、
高尚なる生涯を歩むにおいて喜んで受けるものなのだと。


この彼の言葉すべてに僕は同調することはできないけれども、
ただいまは一片の細胞になって
大きな大きなもののなかの
一片の細胞となって
裏切りもすれば悪さもした
できの悪い細胞が
一片の細胞として
細胞分裂でもなんでもして
それをまっとうできないかと考えている。