『そして殺人者は野に放たれる』思考停止もしくは前提の混乱

kenjuman2008-07-26

「正常と異常の境界線はどこにあるのか」「なぜ人は罪を犯すのか」
それを考えることをどれだけしてきたのか、どれくらい放棄してきたのか、そのために今現在どういうことが起きているのか、突き詰めて言えばそれはこの刑法39条のことだけではなく人間の問題なのだといえる。

序章 通り魔に子を殺された母の声を
第1章 覚醒剤使用中の殺人ゆえ刑を減軽
第2章 迷走する「責任能力」認定
第3章 不起訴になった予告殺人
第4章 精神鑑定は思考停止である
第5章 二つの騒音殺人、死刑と不起訴の間
第6章 分裂病と犯罪の不幸な出合い
第7章 日本に異常な犯罪者はいない?
第8章 闇に消える暗殺とハイジャック
第9章 心身耗弱こそ諸悪の根源
第10章 判決に満悦した通り魔たち
第11章 刑法四〇条が削除された理由
第12章 日本は酔っ払い犯罪者天国である
第13章 もう一つの心神喪失規定「準強姦」
第14章 女性教祖「妄想」への断罪
第15章 家族殺しが無罪になる国
第16章 人格障害者という鬼門を剥ぐ
終章 古今東西「乱心」考
あとがき
文庫版あとがき
解説 斎藤 環

大阪芸大を中退(正しくは除籍)した僕は、生きるための金を稼ぐことを目的に司法書士の勉強を始めた。司法書士という資格を選んだのは、それこそ大して考えることもなく学歴が問われることがなくてカッコよさそうくらいなもんだった。
資格試験合格のために学ぶことは、法律および過去の判例ということになる。最高裁、戦前で言うと大審院判例を試験で出たときの正解として学ぶのだ。
その判例の中には、なぜこんなおかしい内容が正解として記憶されなければいけないのかという疑問を感じてしまうものが多く含まれていた。適当である結果を考え出すことよりも、正しいとされる解を記憶することが資格取得に必要であるということはどのように理解すればいいのだろうか。

それは思考停止をしているのか、そもそも法律というものが存在する前提が共有されていないのか。

来年の春には疾走プロダクションが“名古屋アベック殺人事件”を題材に劇映画を製作することになっている。
これが人が人を裁けるのかという加害者よりの死刑廃止論者の目線や、被害者感情を鑑み被害者救済や犯罪の再発を防ぐという目線、どちらの比重にたっても映画は製作されるべきではない。
“ただ人間をえがく”という映画の前提にたって映画は製作されるはずである。