自己啓発に関する違和感

以前から自己啓発書を何冊か読むことで感じている違和感があった。
その違和感が何なのか、今日会話の中で確認できたので記したいと思う。

その違和感をなにやら言葉にできず、もやもやとした胸のしこりが残り、そのしこりを身体感覚としての焦燥感と取り違えて落ち着かない気分でその手の本を読むことを重ねていた。

僕は意外に生真面目なたちで、自己啓発書に書いてあることなんかは素直に実行したり、文章内にある実践編なんかも忠実に行うタイプだ。そこに書いてあるとおり、すっかりやってしまってからすっきりしていない自分の気分に気づく。

僕の中のネガティブな感情が打ち消すことができなくて、きっとこのもやもやは残ってしまっているのだろう、そんな風に考えていた。自分自身の忘れたと思っている遠い傷ついた記憶が僕の信じる力を妨げるんだと。

しかし、単純にそういうことではない、自己啓発書は書かれすぎているのだということに気づいた。
自己啓発書の目次を見れば、多くの場合整然とした構成に従って、その書物の中での主題が語られている。目次を見ればそこに書かれている主題が大方想像がついてしまうものもある。
自己啓発書はクイズで最初からヒントや答えを教えられたようなものであるということ。
また、それが著者の経験を通じて導かれたものであるので、押し付けられたもののように感じるということ。
その二つが僕のもやもやの正体の一部であるのは間違いなさそうだ。

やはり自分自身で宝物を発見したという体験、自分自身の五感を通して得た経験に勝るものはない。

とここまで書いてきて気づいたのだが、問題は自己啓発書にあるわけではないようだ。昨日読んだ『本を読む本』の中でいう積極的読書の姿勢が僕に欠けていたということ、消極的というのか受動的に自己啓発書を読んでいたがためにもやもやが起こっていた、どうやらこれが正体のようだ。

これで自己啓発書を読まないという愚昧な判断をしなくてすみそうである。