一つ抜けたい

現代美術は、その表現においてこの上なく自由であるが、「一つ抜けている」作品とそうではないものの間には歴然とした差がある。

口語表現もまた同じであり、どのような言葉を配列しても自由であるが、その内容が「一つ抜けている」
ためには、何らかの配剤が必要だ。<茂木健一郎 クオリア日記より>


「一つ抜けている」広告、「一つ抜けている」人間、いろいろあるが、「一つ抜けている」ものとそうでないものにはぱっと見た印象だけでも違うように思う。

「一つ抜けている」ということに共通することは、何かから自由であるということではないだろうか。その何かというのは「一つ抜けている」ものが何かにもよるとは思う。暗黙のルールであったり、既成概念であったり、今までの必勝パターンであったり、自分自身であったりするのだろう。

別に「一つ抜けている」必要なんてないんじゃないっていう人もいると思うし、それはそのとおりだ。
でもどうせだったらいろんなものから自由ではありたい。それは勿論責任からも自由であるという意味ではない。