幸せになれない病(やまい)

マイケル・ムーア原一男監督の対談が掲載された『創』で原一男監督が自らに対してのコメントで「僕自身クレイジーでマッドな面があって、絶対に幸せなんてなれないと思う。経済的にも、精神的にも。幸せになってる自分が全く想像できない」まあ、こんな感じのコメントを書いていた。

幸せになんてなれるはずがない、幸せってなんだ?こんなふうに感じているのは原一男監督だけでなくて、僕もずっとそんな考えに囚われていた。原一男と僕はそこの価値観は一致していた。業の深さからくるある種の諦観のようなもの。

この幸せになれない病は僕だけでなく、恐らく映画をやっている貧乏な人はみんなかかっているように思います。僕らは好きな映画は撮るかもしれないけど、ずっとお金も儲からないし、絵に描いたような家庭生活も営めないだろうというような。

でも、何もそういうように思い込む必要はないし、そのようなものを望んでもいいはずだ。なのに望んではいけないような気になっている。お金持ちになってはいけないような。家庭生活を営んではいけないような。そういう思い込みがあって、お金も仕事も建設的に稼ごうとするような考えがないのは何かの呪縛に囚われているのだろう。

それとはまた違った形で「これくらいしか幸せにならなくていい病」というのもある。ほとんど多くの人がかかっているのだが、これくらいって何だ?お金なんてあればあるほどいいんだし、仕事なんて楽しくないものはしなければしないほうがいい。でもちょっとはお金があって、ちょっとは仕事をしてがいいかなと。それはあんまり頑張りたくないから、自分で考えたくないから。

こんな感じでなんかの呪縛に囚われるのは、すごく不自由だと思う。
不幸せではないかもしれないけど、それは不運ではないというのと等価ではないのか。

僕は幸せという言葉は何かつまらないイメージを押し付けられているような気がして不愉快であったのだが、幸せということの意味が自分のエネルギーなり力なり、頭なりを使って、実現したいことを一つ一つ実現していく過程にいることのなのであれば、それはなかなか悪くない。