欠落感と自分の行動

今日の茂木ブログから少し改訂してます。

ぼくのなつやすみ」シリーズをつくってきた綾部和氏
最新作は、プレイステーション3用の『ぼくのなつやすみ3』北国篇- 小さなボクの大草原。

彼のふるさとである北海道の羊蹄山付近がモデルとなっている。昭和40年生まれの作者。あの頃の少年の夏休みのなつかしさが美しく表現されていて、シリーズでミリオンを超えるセールスを記録している。

彼は、少年時代、どちらかと言えば家にいて一人で絵を描いていたりしたので、友だちと野外で思い切り遊ぶというような夏休みを経験しているわけではないのだという。

自分が経験したことの記憶をノスタルジーを持って描くというのではなく、むしろ経験しなかったことの「欠落感」が創造の鍵になるということは、しばしば見られる現象である。

宮崎駿さんも、自分の作品は理想的な子ども時代を過ごせなかったことと関係していると言われていた。

僕自身の欠落感というのは、思春期の異性との関係に依拠しているのだが、なんかその欠落感っていうのが、ほんとはまだ他にもあったり、もしくはもっと昔とか、もっと深いところにあったりとか、そんな漠然としてとらまえられない欠落感というのがあるような気がしてならない。

おそらく突き詰めていくと、両親からの愛情みたいなところに行き着いていくんだろうと思うんだけど、どうしてほしかったとかそういうのは僕にはない。今思えばそれはそれで良かったような気もして、そういう意味でもある感謝の念みたいなのは確かに存在している。

で、先ほどのブログに話は戻すと、僕はメロドラマはすごく好きだし、家族のドラマなんかも好き、あと学園ドラマも好きだったりして、そう思うとなんか自分に欠落しているようなものばっかりだ。

逆に最近の不条理な映画とか、カルトな映画なんかはあまり好きじゃなかったりする。不条理なんかは現実のものとしてあじわってきたからだろう。四次元の迷路のようなところに迷い込んだような映画も、もう毎日が四次元の迷路みたいだったら、そんなもの見たくはないわけで。

そうなってくると現実では、その欠落感を埋めるように行動していくのかというとそれがよくわからない。なんか欠落感というのがもう決定的な気がして、それを埋めるとかじゃない気がする。だからそういうのとはちょっと違う。でもその欠落感が行動を決定的なものにしているのは確かな気がする。

その欠落感がもうあるものとして、受け止めるとちょっとはその欠落感っていうやつも可愛く思えてきたりするように思う。