不安の源泉

ある日2人は各自の収穫物をヤハウェに捧げる。しかしヤハウェアベルの供物を喜び、カインの供物は無視した。
そしてカインはアベルを殺し、ヤハウェはカインを追放する。<聖書より>

ヤハウェ」の気持ちは、カインとアベルの時代とは比べ物にならないほど移り気です。今日は穀物が喜ばれても、明日は羊が喜ばれるかも知れない。カインが不満であるだけではなく、アベルも不安なのです。それ以前に、これだけモノがあふれていれば、受け取る方のありがたみだってどうしても減ってしまいます。何をあげようとしても、すでに別の誰かがもっといいものをあげていて、あなたの供物は「もういらない」と言われるような気がする。あなた自身を含めて。

失ったものは自らの力でとりもどせます。しかし受け取ってもらえないものは、どうすれば受け取ってもらえるようになるのでしょうか。今日の羊飼いは明日の農夫となるしかないのでしょうか。羊飼にしかなれないものは、農夫を恨んで生きるしかないのでしょうか。

聖書を引用した現代人の不安を書いたこのブログ。
この不安を払拭するには?
間違いなく受け取ってもらえると確信できるものを作るしかない。それはそうであるべきものがそうであるべき姿であるものはある程度分かりやすい。

でもそんなものはあるわけがない。
いい野菜をつくろうがみんな安いものしか食べないかもしれないし、安いのをつくったから買ってもらえるわけでもない。

だからずっとやっぱり不安でいるしかない。不安なんてないんだよーってバカになるのはちょっと違うと思う。

不安をまるかかえしながら、つくって、だめだったらまた作り直して、そういうことを何度も何度も繰り返して進むしかない。

不安に立ち向かってやるんだ。正面から立ち向かっていくその力だけが僕たちを不安と不満から遠ざける。