『フラジャイル 弱さからの出発』

 元の名前が女であった。ミキという名前であった。
今思えば、名前を変えて小学校に入学したときから、状況や事情は変わろうとも、いつも
うしろめたさのようなものを引き連れて生きてきたように思う。「負」の事情を抱えこむ
者にとって、『フラジャイル』というタイトルは甘美に響いた。


 自己のヴァルネラビリティに過敏な人間は自らを特別視したがるものだが、それが病と
なって顕れているのが鬱というわけだろう。彼らはとても弱々しくフラジャイルに見える
のだが、これは本書におけるフラジリティではなく、真逆の弱さといえよう。つまり、強
さに憧れるが故の弱さなのである。「堅い私」にとらわれ、「自己の中心」に意識をチュ
ーンインしているため、世界から切り離されてしまった。


 弱さを内包した二項同一性が私たちの本来であるにもかかわらず、なぜ強さに固執する
ようになったのか。『森田療法』にある自己防衛的な本能も一つの理由ではあるだろう。
それとともに本書では、優生学のアイディアによる「強さの神話づくり」が再生産されつ
づけてきたため、すっかり「強さ」に憧れ、弱者や異端者の視点を失ってしまったからだ
と説いた。

 
 これは子供が目にするアニメや耳にする童謡でも顕著であることが指摘されている。私
の世代でもヒーローはみなしごで反則ばかりするタイガーマスクあしたのジョーであり、
人間になれなかった妖怪人間であり、改造された仮面ライダーであった。彼らは世間から
認知されない異形の者、異能の者であり、元来人間がもっている孤独を引き受けるもので
あった。それが今やライダーは仲間と一緒に戦うようになり、童謡CDから『赤い靴』や
『青い目の人形』は姿を消した。


 弱さ、弱点は階層のしるし、排除の対象に。その結果どうであろう。私たちはどうにも
つながれなくなってしまった。関係線をひけなくなってしまった。強さを求め求められる
あまり、人を断罪するようになった。弱さを抱える自分を許せなくなった。トワイライト
の微細な弱さ、断片の煌き、はかない消息を感じることができない。複雑さは敬遠、放棄
され、平明さが求められる。執着するのは振舞ではなく自らの葛藤くらいのもの。現代が
抱えるのは「感じやすい問題」ならぬ「感じにくい問題」なのであろう。


 「欠けた王」である私たちは、その欠けた「自己の他端」を拡張する必要があった。他
者はもちろん外にあるものと結ばれるためにである。つなぐための空白と距離としての近
さ。ここまで書いてきて「カミ」という言葉が頭に浮かんだ。オトヅレや影向とともに現
れる「カミ」から私たちはあまりにも離れすぎた。


 「私は『私』という主体をどのように中途半端に向かって投企しておけばいいのか、そ
ういう機会はどのようなときにやってくるのか」という問いのあとに始まる『あいまいな
「私」』で克明に綴られたのが癌手術後の様子である。比べられるものではないが、2年
前に痔の手術をしたときに同じような感覚をもった。毎日が生理と嘯いてGパンに生臭い
日の丸をつくりながら数年我慢はしていたのだが、観念して手術をし、烏賊の嘴のような
痔核を6個とり10日間入院した。術後、肛門の肉をごっそりとったもので一向に力が入ら
ない。尻を下にもできないうえ、声も聞き取れるくらいのか細い大きさしかでなかった。
ところがこの状態のおぼつかなさがちょうど良い具合なのだ。このままの心もとなさで深
山にひきこもりたいとさえ思った。退院しても弱々しい状態を維持したく、できるだけ小
さく無声音で話し、ゆっくりと確かめるよう最小限に動いてみた。日常に戻って、フラジ
ャイルな演技をしばらくは続けていたのだが、伝わらないこと、見えないこと、みくびら
れることを怖れて、気づいたら声を大きく振舞を強くしている自分がいた。「やり切れな
い失望」は訪れ、その失望ももはや思い出すことも少ない。


 さて、どうしたものか。TVやネットで目は塞がれ、ipodのヘッドホンで耳は塞がれ、
季節を逆転させる部屋の中で窓を塞げば、弱々しいものから離れるばかりである。はかな
い消息はますますはかなくなってしまった。そんな私たちがやるせなくかわいそうな存在
に思えて仕方がない。


 今、私の目の前を高速で「損なわれた光」が走り抜けようとしている。そこで軽々しく
ひょいと飛びのればいいのだが、どうにもまだ強さの洗脳が解けないようで、端っこにし
がみついたり、走って追いかけている次第なのである。「自己の他端」をせめて歩道橋く
らいまで広げられて、その境がにじんだ曖昧さで満たされるようになれば、颯爽とした身
のこなしをお見せできるかもしれないのだが、それはこれからの課題にしたいと思う。