死んでしまえの思想

自分が一旦死んでしまうのですね。
一旦死んでしまうと、
いろんな形の亡霊が死者の目の前に踊りだすわけですね。
生きるということは、
本質的に自分を中心にものを考えることでしょうし、
自分をものの中心に考えることが行為になれば、
そこに多少の妥協はあろうとも、
自分を押しつけることになるわけです。
もしそうでありたくないなら一旦死ぬより仕様がない。
ええい、死んでしまえ、と。
高橋和巳<私の文学を語る>より

うんざりしているのだが、
そのうんざりの正体を見極めないと、
うんざりを云々することはできない。
そのうんざり、生の本質だというわけである。


うんざりはいろいろなところから押しつけられる。
それはよくわからないところからきているんじゃないか。
よくわからないのに、よくわからないままポンと出される。
よくわからないですけどこうなんですよとか。
よくわからないですけどこういうもんなんですとか。
よくわからないですけど私はこうなんですとか。
そうすると僕は僕が考えることにはなんとか責任をもちたいが
よくわからない人のよくわからないことはよくわかりかねる。


だが生きていると、
このよくわからないような押しつけとも関わりをもたなければいけなかったりして、
なんだか消え入りたい気持ちにもなったりするのだが、
そういう清水舞台という思い切りもまだないので、
一旦死んでしまうしかなさそうだ。
まずは毎日死んでしまうか。
それで具合がよさそうだったら、すすめてみようと思う。
死んでしまったらどうだい?と。
これもまた押しつけではあるのだが。