おばあちゃんとわたし

 清の事を話すのを忘れていた。
――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、
清や帰ったよと飛び込んだら、
あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと
涙をぽたぽたと落した。
おれもあまり嬉しかったから、
もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。


 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。
月給は二十五円で、家賃は六円だ。
清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが
気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。
死ぬ前日おれを呼んで
坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。
                『坊っちゃん夏目漱石

もうすぐ4月8日がくる。
おばあちゃんの命日である。


子供のときから
ずいぶんなおばあちゃんっこで、
小学校6年までおばあちゃんの
長いまくらで一緒に寝るのが好きだった。
そのあともたびたび一緒に寝ていたし、
中学になっておばあちゃんがひっこすときはさびしくて
ぼくが悪かったのならあらためるから
いかないで欲しいと涙を流してうったえたこともある。
おばあちゃんは、
そんなのは関係ないからもうねなさいと言って
翌朝ひっこしていった。


坊っちゃん』が気に入ってたのは清のせいだ。
おばあちゃんと清はシチュエーションも違うのだが、
だぶらせて読んでいた。
小学校のときに合宿にいって、
合宿先に笹あめが売っているのを見つけて
小躍りしておばあちゃんに買って帰った。
おばあちゃんはよろこんでくれたが
単なる水あめだからそんなにおいしいもんじゃないやねと言った。
清があんなにほしがっていたのだから
そんなわけはないと
僕も食べてみたのだがやっぱりあんまりおいしくなかった。
それでもあきらめきれなくて
凍らせたり、ほっといたりして
思い出したように食べてみたのだが
笹がはりついてとれなくなってしまい
ますますどうにもならなくなった。


引っ越してからも、
おばあちゃんはいつも親にもないしょで
ごはんを食べにつれていってくれたり、
ブルーベリーガムをくれたりした。
そっちでこっそり食べなさいと
たんすのかげでお菓子をくれたりもした。
それがなんともうれしかった。


高校を卒業した僕は
大阪の大学に行くようになり、
京都には帰らなくなった。
大学を中退して
映画の学校にいくようになったら、
おばあちゃんはいつも映画のエンドロールを見て
僕の名前が出てこないか楽しみにしていたらしい。
そのころ僕は遊びほうけていたわけで
そんなところに名前がでるわけもなかった。


映画のことはそれでもあきらめきれずに
東京にいこうと思ったのが5年ほど前のことだ。
おばあちゃんはそのとき京都にいなさいと反対したが、
1月に東京にでた。
おばあちゃんはその年の4月8日に
洗濯機にもたれて死んでいた。
朝には死んでたらしいが気づいたのは夕方だった。


4月8日は命日だから親族が集まる。
僕は坊さんをやっていたこともあって
その場でおばあちゃんにお経をよんであげて欲しいといわれるのだが、
いつもことわってこっそり京都にいくことにしている。


お墓にいくとおばあちゃんは祖父と一緒のお墓で
安らかに眠っている。
その3つとなりでは僕の父が眠っている。
墓にいくと花を供えて水をかけてゆっくりと洗うのだが
父と祖父にはなんとも気恥ずかしいような
そんな気持ちでいつも墓参りをしている。


今年は2月に墓参りをしてきた。
もちろんみなにはないしょである。