あの時だったかもしれないーフレームワーク力

kenjuman2008-06-11

BS-iで放送された「あの時だったかもしれない」を見た。是枝監督が演出、テレビマンユニオンの村木良彦さんが亡くなり、60年代のテレビドキュメンタリー番組と村木さん、萩元晴彦へのロングインタビューを通し、彼らがテレビとはどういうものであると考え、どのような表現がしたかったのかを検証した番組。
僕が管理する原一男監督HPの尾中洋一さんのインタビューhttp://docudocu.jp/cinema.php?category=tawara&no=11テレビマンユニオンの話も出てきていたので村木さんの名前は記憶に残っていた。

私がさも知ったふうに「萩元さんの時代は、寺山修司谷川俊太郎を使って普通(・・)と(・)は(・)違う(・・)テレビ表現を追求していましたね」というと、萩元はするどい目を私に向けて言った。
「君に質問するけど、普通(・・)の(・)テレビ表現って何だい?そんなものいつ誰が決めたんだい?」
私はしどろもどろになった。萩元が続けた。
「テレビはわかりやすさを追求するあまり、実に表現力の乏しいナレーションばかりになってしまった。それが君のいうところの普通(・・)の表現だと思うよ」
私は頭を「ガツン」とやられた気分だった。
http://www.tbs.co.jp/houtama/diary/20080526.htmlほうたま日記より

この番組を見て感じたことは、ロジカルシンキングなどでも言われるフレームワークという言葉だった。
前日のブログでも書いたように、勝間さんのセミナーにもいったり、ロジカルシンキング自己啓発のビジネス書を読んだり最近はしているのだが、非常に勉強になるなあと感じる反面、今のテレビ番組のような違和感を感じるのだ。

それは、フレームワークである。
セミナーなどには求めるものではないのかもしれないが、フレームを切った本人の視線、情熱が感じられない、そうしたときに僕はそこに醍醐味みたいなものは見出すことはできないのである。
いや、それは言い過ぎか。そのフレームワークに居心地の悪さを僕が感じてる。それが自分自身のものとして落とせていないということなのだろう。

ただ、普通の表現、判で押したようなフレームに違和感を感じる、萎縮したものを感じるのは事実だ。
基本的なフレームワークというものを身につけつつも、常にそのフレームとは違うフレームを探し、本質をついた情熱的なフレームワークをしたいものだ。