自由という不自由
ある制約や枷があったほうが自由になれるということはよくいわれたりするが、手術して入院という経験をして、それを身をもって感じた。
手術をしてしばらくは痛いしつらいから体力もないし、起き上がることもできない。
そうすると自ずとやれることが限定されるわけで、術後しばらくは寝ながら自分がもってきた本を読んだり、携帯を触ることしかできなかった。
そうするとその中から最大の楽しみを得ようとするもので、読書は集中して進むわ、携帯には予期せず詳しくなるわ、制約されたなかで自由を得ようとする自分に満足できた。
しかし、体力がつき、体が自由になってくると電話をして声をだすこともできるし、病院においてある漫画も読める。パソコンの前に座ってネットすることもできるようになる。
そうすると選択肢が増えた分、ひとつのことに集中できなくなる。いろんな考えが頭をよぎったりする。弱ってるときは優しい気持ちになり、様々な感謝の気持ちに満たされていたのがそれほどでもなくなる。
まさに不自由は自由、自由は不自由だ。
足を切断し、去勢をすればより自由な精神を持てるのかと不謹慎な想像をした。
もう少し不自由を満喫し、自由になる入り口やスイッチを探してみたい。
実はこれみんなにいってなかったけど朝7時現在、僕の横で寝てる人、二代目なんです。
火曜日から入って来られてもう退院です。初期だったらしく、注射で2日だけのお泊まりです。
初代は初老の長年サラリーマンをされてきたようなこなれた紳士でしたが、こちらは商店街で野菜をうってる感じの野暮ったいおじいちゃん。
しゃあしゃあしゃあ。しゃあしゃあしゃあ。と何かをするたびに、ヨイショとかのかわりに声を発します。
部屋でおならはしまくるし、やたらと独り言が多い。ご飯のときは「腹がへっては戦はできぬってか。」夜になると「病院の夜は長いねえ」とか。トイレに行くたびには、「ああちょっとトイレにいってくるか」
昨日はお世話になりましたと何もお世話をしていないのにご丁寧に挨拶をされた。
今日はどんな三代目がくるか楽しみだ。おじいさん希望