ジャパニーズ・ドリームの不在について

5月12日の木村剛さんのブログの中でジャパニーズ・ドリームの不在について語られている部分がある。

ホリエモンは罪を犯していない、とか、ホリエモンを逮捕してしまった検察は間違っている、などと主張するつもりはありません。しかし、「ホリエモン」というジャパニーズ・ドリームを完膚なきまでに叩きのめした日本という国家が為すべきことは、日本の将来を支える若者たちに対して、「ホリエモン」に代わり得るジャパニーズ・ドリームを分かりやすく提示するということだと思います。
 若者たちの自殺を防ぐために、いま必要なことは、平成時代の松下幸之助であり、本田総一郎であり、盛田昭夫を産み出すことなのです。新興企業の若手経営者たちを次々と血祭りにあげることではありません。
日本という国は、ますます内向きになっています。このままでは、若者の夢は、お笑い芸人になってテレビに出ることしかなくなってしまうでしょう。お笑い芸人になることを私は卑下しません――私は漫才やコント(特に昔のアンタッチャブルやインパルス)が大好きです――が、お笑い芸人になることだけが若者の夢であるとしたら、この国の将来は見えたも同然であると思います。

僕のまわりにも、たまたまそういう人間が集まってきているのかもしれませんが、映画監督志望、イラストレーター志望、漫画家志望、お笑い芸人志望、バンドマン、DJ、クリエーター志望。そういう人たちが大勢います。
そして、それを志望していることが、彼らのアイデンティティを保つ蜘蛛の糸であるかのようであります。
僕自身も映画監督を志していた人間ですし、いまでもそういう気持ちがないわけではないのですが、彼らと話していると、強い閉塞感を感じるのは事実です。
リエーター志望という呪縛にとらわれていて、生きるとか、生活をするということをおろそかにしている。そんなふうに見えるのです。
その理由は、彼らにはお金をかせぐ、自分がやっていることをお金にするという視点が欠けていて、その欠けていることを正当化するようなところがあるからだと思います。

お金を稼ぐ、頭を使う、そういう仕事は他にもいっぱいあるわけで、それがもっと広く目に触れるようになり、子供たちにジャパニーズ・ドリームとして認知されれば、状況は大きく変わっていくのではないでしょうか?
今後は、僕はジャパニーズ・ドリームも格差社会になっていって、アメリカの貧困層の黒人がNBAの選手に憧れるように、子供たちのなかでも思い描くジャパニーズ・ドリームに格差が生まれてくるようになるのではないかと思っています。